ジョギングインストラクターとして、日々走ることを指導することを生業のひとつとしている。それによって、より多くマラソンについて人が何を求めて走るのか?なぜきついのにゴールを目指すのか?真面目に考えることが多い。
そして、目標をもってマラソンを走ろうと決意した生徒さんたちの挫折や感動の場面に立ち会い、その感情を共有することも少なくない。
そこで改めて考えてみる。
現代の便利すぎる環境下に生きる我々は、42.195㎞なんて距離を走れるようにできてない気さえする。そもそも、なぜ42.195㎞という距離になったのか?
調べてみると、紀元前490年まで遡るがマラトンの戦い(ギリシャ)でアテナイ軍がペルシャ軍に勝利した一報を、兵士がアテナイまで40㎞走って伝えたことに由来している。
その後、40㎞前後の距離がマラソンの距離とされていたものの、第4回ロンドンオリンピックで王妃アレクサンドラが、”スタートは城の窓の外から、ゴールは競技場のボックス席で見たい”と言ったことで距離を調整して42.195㎞という距離が生まれたらしい。
実は、たった一人の王妃のわがままから決まったフルマラソンの距離。40㎞くらいの関門で収容されたランナーが聞くと激怒しそうな話である(笑)
多くのマラソン大会には、1分1秒の記録更新を狙うエリートランナーから、たまたま抽選が当たって走り始める方まで様々なランナーが混在している。
自分にできるかどうか分からないことに対する挑戦であったり、なにか人生における大切なものをかけて挑んだり、動機はひとそれぞれあると思うが、自分を超えたい!という動機付けにその共通項を見いだせる気がしている。
大人になって、こんなにも身体を酷使して辛いことに挑む機会はそう多くないはずだ。でも、実際には経験したことのない疲労や脚の痛みなどで思うように走れないことが多く、なくなくリタイアせざるを得ないケースもある。
また、団体競技と異なり、常に自分自身との闘いである側面が大きいのもマラソンの特徴だろう。
特に初めての距離に挑むランナーにとっては、とてつもなく遠い距離、とてつもなく遠いゴールに向かって1歩1歩進んでいくのだ。
その道中、辛くてきつくて痛くて「もうやめよう」「いや諦めたらダメだ」と自分の心の中の激しい葛藤もあり、身体も脳も休みなしのフル回転状態となる。
自分に負けそうになった時に、沿道からの声援や心温まる言葉、そして仲間や家族の応援があったりするとエネルギーがどこからともなく湧いてきて頑張れる自分にびっくりしたりもする。
応援してくれる人のためにももう少し頑張ろう!諦めずに行けるところまで行こう!と前向きな心とともにゴールを目指し続けるのだ。
おそらく本能的にも、ゴールまでたどり着くことで自分の中の何かが変わるのではないか?
そんなゴールの先にあるまだ見えないものに対する期待も、身体を動かすモチベーションとしてあるのかもしれない。
私自身は、そんなモチベーションをもって今でもマラソンに挑んでいる。毎回、状況が異なるものの42.195㎞先にある景色を何度も見てきて、今は100㎞以上の距離にその期待を寄せるフィールドを変えている。
マラソンに何を求めているのか?個人的な見解ではあるがそれはきっと、、、
ゴールの先にいる新しい自分に会いたいのだ。
スタートする前に比べて、きつさや苦しさを乗り越えて
・ゴールした自分にどんな心境の変化があるのだろう?
・ゴールしたら今より成長した自分に出会えるのか?
そんな期待が多かれ少なかれあるから、きつくても辛くても必死にゴールを目指すのだと感じている。
そして、その経験をすることで以降の人生や価値観が変わることだってあるだろうし、何よりも誰にでもできないことをやり遂げたという達成感が自分を信じること=自信を持てる一因にもなるのだ。
大袈裟な言い方かもしれないが、マラソンを走ることによってこれまで知らなかった自分に出会えたり、応援することされることの大切さに気付いたりする。
そして、大人になっても子供の頃のように一生懸命打ち込める場所がある、支えあえるステキな仲間に出会える場所があることを知るのだ。
新しい自分探し
これこそマラソンを走る最も大きな原動力になっているランナーもいるはずだ。少なくとも私はそう感じながら日々チャレンジをしているし、これからも尽きることのない自分超えチャレンジを実践していくつもりだ。
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